2026/10/27
本年、2026(令和8)年/02月/17日
羽衣石城が国史跡に指定されました。
羽衣石城跡 附 十万寺城跡 番城跡
[ウエシジョウアト ツケタリ ジュウマンジョウアト バンジロアト]
という名称の史跡指定です。
鳥取県、湯梨浜町の説明その他の資料を
自分なりにまとめて見ました。
(図 01羽衣石城位置 参照)

見て頂ければ嬉しいです。
目次
01 地名前提
02 羽衣石城の成立
03 羽衣石城成立の背景
04 武家家伝_南条氏
05 南条氏の系譜
06 南条元続
07 山田氏
08 浅津文書
09 関ヶ原以降の南条氏
01 地名前提
伯耆国: 河村郡、久米郡(倉吉)、八橋郡、
汗入郡、会見郡(米子境港)、日野郡
からなる
久米郡: 倉吉市の大部分(天神川以西)と
北栄町の一部(松神、曲[マガリ]以東)
河村郡: 湯梨浜町、三朝町、倉吉市の一部(天神川以東)
八橋郡: 東伯郡琴浦町、北栄町(由良、常磐、栄)、
西伯郡大山町(旧中山町)
汗入郡: 米子市(旧淀江町、宇田川村)
大山町(旧名和町、大山町、中山町一部)
会見郡: 米子市、境港市、日吉津村、
南部町(旧西伯町、会見町)、伯耆町(旧岸本町一部)
日野郡: 現日野郡と同じ(日南町、日野町、江府町)
八橋郡: 明治22年時点の旧八橋郡
東伯郡琴浦町
八橋村(八橋町)、赤崎村(赤碕町)、
浦安村(浦安町)、下郷村、上郷村、古布庄村、
安田村、以西村、逢束村、市勢村、勝田村
東伯郡北栄町
由良村、常盤村、栄村
西伯郡大山町
下中山村、上中山村
八橋は和名類聚抄で[やはし]の訓がついておりいつ
[やばせ]になったか不明。
江戸時代末は[やばせ]のようです。
明治の郡統合
1896(明治29)年郡統合
東伯郡: 河村郡、久米郡、八橋郡 を統合
現在の鳥取県中部
(倉吉市(関金含む)、湯梨浜町、三朝町、
琴浦町、北栄町)
西伯郡: 汗入郡、会見郡 を統合
日野郡: 日野郡
(図 01伯耆国 参照)

02 羽衣石城の成立
羽衣石城[ウエシジョウ]は、伝承では1366(貞治5)年に
塩冶高貞[エンヤタカサダ(旧字)藍治] (出雲国守護(1341死去))
の次男、南条貞宗が築城し、初代城主となった。
和名類聚抄:承平年間(931-938)勤子内親王の要請で
源順[ミナモトノシタゴウ]が編纂
(ワミョウルイジュショウ/平安時代の辞書)
古代郷名 3986件 収録
国立公文書館デジタルアーカイブにて無料検索
(図 02_羽衣石城 参照)
(図 03羽衣石城位置 参照)

以後1600(慶長5)年に関ヶ原の戦いで西軍に属した南条元忠が改易されるまで、南条氏の居城として約234年間機能した。城の歴史や南条氏に関する詳細は、以下の公式情報を確認。
02-01 湯梨浜町の資料
築城と歴史の伝承: 湯梨浜町
「羽衣石城跡 附 十万寺城跡 番城城跡」が、
2026(令和8)年2月17日付で国の史跡に指定された。
今回の指定により、湯梨浜町内の国指定史跡は 5件となった。
羽衣石城(うえしじょう)跡は、
伝承によれば塩冶判官[エンヤハンガン] の名で知られる
南北朝期の出雲守護・塩冶高貞の次男・南条貞宗を初代城主とし、
1366(貞治5)年に築城された中世の山城の遺構。
南条氏の拠点として、
戦国期には尼子・大内・毛利・織田などの戦国情勢の波にもまれ、
落城と回復を繰り返し、
1600(慶長5)年関ヶ原の戦いで南条氏の属する西軍が敗れて
廃城となるまで、約230年間にわたり使用された。
標高372mの急峻な山の頂上に、
本丸・曲輪(くるわ)・虎口などの遺構が残る。
本丸跡は東西66m、南北20m、北西の尾根上を中心に
大小多数の曲輪跡が存在し、
中世城郭としては相当な規模を誇る。
1931(昭和6)年に南条氏の子孫が本丸跡に私財を投じて
トタン製の模擬天守を建立。
その後1990(平成2)年に現在の模擬天守へ改築された。
2001(平成13)年に羽衣石城跡が県史跡に指定された。
2026(令和8)年に
「羽衣石城跡 附 十万寺城跡 番城城跡」として
国史跡に指定された。
※模擬天守はシンボルとして建てられたものであり、
見学用の施設ではないため、常時施錠。
利用を希望者は要照会。
【番城】
羽衣石城の北北東500mに築かれており、
標高400mで羽衣石城より高い。
羽衣石城の物見をする砦とみられ、
一部に帯曲輪の遺構がみとめられる。
【十万寺城】
羽衣石城の南方850mに築かれた山城。標高423m。
主郭は東西70m×南北50mの規模で、内部は未造成だが、
南側を除く羽衣石城側の三方に明瞭に土塁が残されている。
南側も一段高く通路状となり、西側曲輪群へと接続するため、
土塁としての役割も兼ねていたと考えられる。
東と北西に巨大な堀切を設け、その間も空堀状を呈し、
北側の防備を固めている。
東側に突出する曲輪との間には堀切を設けて切断し、
西側へと続く曲輪の両側には竪堀が見られる。
02-02 羽柴秀吉VS吉川元春 馬ノ山の対峙と十万寺城
東伯耆の国人・南条氏は、
戦国期には毛利氏と手を結び、出雲の尼子氏滅亡後は、
伯耆三郡を支配する
毛利氏山陰支配の一翼を担う存在。
1575(天正3)年、当主の南条宗勝が病死して
南条元続が跡を継ぐと、
織田信長方による調略が開始された。
元続は1579(天正7)年に毛利方の家臣を討伐し、
織田方への寝返りを鮮明にした。
南条氏を味方に引き入れた翌年、
織田信長家臣の羽柴秀吉が因幡へ侵攻。
1581(天正9)年6月、秀吉は2万余りの兵を率いて
第2次鳥取城攻めを開始し、兵糧攻めに成功。
毛利方の吉川元春は、鳥取城救援のため
月山富田城から兵を東へ進めた。
吉川勢は南条氏の羽衣石城攻略を目指し、
1581(天正9)年10月25日には馬ノ山に陣を布く。
さらに前進しようとしていたところに、
鳥取城落城と吉川経家自刃(10月25日)の知らせが届く。
(秀吉の中国大返しは1582年6月6日)
秀吉は姫路へ帰陣の準備を整えていたところに、
南条元続とその弟・小鴨元清から助勢要請が届く。
吉川元春が、羽衣石城攻撃準備中という内容。
秀吉は10月27日、「高山」に着陣し
馬ノ山の吉川元春と対峙したと、
江戸時代の地誌類に書かれている。
秀吉軍数万に対し、吉川勢はわずか6千だったとされるが、
鳥取城で散った吉川経家の弔い合戦に臨むべく、
その戦意は高かった。
秀吉は犠牲を考慮して決戦を避け、
羽衣石城に食料と弾薬を補給。
峰伝いに輸送を開始する秀吉軍に対し、
吉川勢は松崎付近まで出撃し妨害を加えた。
無事に物資を補給した秀吉は陣を引き払い、
元春も主力を率いて月山富田城へ帰陣。
両軍は互いの実力を認め合った上で、
衝突することなく撤退したといわれている。
秀吉が着陣した「高山」について、
従来は馬ノ山の南東2kmにある「御冠山」着陣説が通説だが、
近年は「十万寺城」であったとする説が有力。
十万寺城は標高423m。
眼下に羽衣石城(372m)を見下ろすだけでなく、
その先の馬ノ山までをも見通すことができる。
また、番城も同時期に救援のために
築かれた山城である可能性がある。
織田・豊臣政権の陣城の遺構としては、
小谷城攻め、三木城攻め、鳥取城攻め、
小田原城攻めなどの際に築かれたものが残されているが、
これらの陣城はすべて城攻め用のもの。
しかし十万寺城は、城攻めではなく
羽衣石城の南条氏の救援のために築かれた城とみられ、
他に類例のない貴重な遺構。
02-03 鳥取県の資料
羽衣石城跡城の概要と特徴: 鳥取県 羽衣石城跡
羽衣石城跡(うえしじょうせき:uesizyouseki)
羽衣石城は中世東伯耆の国人(武士)であった南条氏の居城で、
県内最大規模の山城。
1366(貞治5)年に築城されたという伝承もあるように、
戦国時代の山城の特徴をよく残している。
羽衣石城は戦国時代から安土桃山時代において
東伯耆支配の中心となる城で、保存状態が良いだけではなく、
関係資料の豊富さも県内中世城館の中では第一級。
03 羽衣石城成立の背景
鎌倉時代、守護、地頭は守護が警察権、司法権を持ち、
地頭は徴税権を持っていた。
室町時代、守護は警察権、司法権、徴税権の半分を持ち
守護大名へ。 地頭職は没落。
東伯耆の守護は(倉吉)山名氏、地頭は東郷氏だった。
地頭の東郷氏は九州出身。 執権北条氏を後ろ楯として
地頭職となった。
1258年鎌倉の執権北条長時、連署北条政村が花押し、
今に国宝として残る、
伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図を作成したのは
東郷氏だった。
(図 04東郷荘 参照)

1333年、執権北条氏が滅亡すると、東郷氏は後ろ楯を失い
伯耆国有力守護の山名氏が勢力を伸ばしたが、
南条氏が東郷荘に入部してきたことにより、弱体化
していた東郷氏は抵抗できずこの地を追われ、没落
した。
その後、戦国時代にかけて室町幕府の守護山名氏や
南条氏の支配へと移っていく。
戦国時代の伯耆国は、尼子・山名・毛利・織田といった
戦国武将の対立・抗争の舞台として、
数多くの戦いに見舞われた。
特に「国人(こくじん)」と呼ばれる中小領主の多くは、
有力大名たちの狭間で生き残りをかけた
厳しい戦いを強いられた。
東伯耆に勢力を持っていた南条氏も、それらの国人の1人。
室町時代には守護に代わって政治を行う
「守護代」に任じられた。
1447(文安4)年に京都にある南条氏の宿所が
攻撃された記録から、当時、南条氏もしばしば上京
していたようです。
(応仁の乱は1467年)
(図 05山名氏 参照)
(図 06中国勢力図 参照)


戦国時代の南条氏は、小鴨氏・浅津氏・山田氏といった
東伯耆国内の有力な一族や、美作国(岡山県北部)の
国人たちと手を結んで東伯耆一帯に強固な勢力を
形成した。
史料は多く残されていないが、東郷池を中心とする
水運との関わりや、美徳山(三徳山)・一宮など有力寺社
との結びつきもあった。
03-01 尼子氏の伯耆侵攻と南条氏
16世紀初頭、出雲から尼子経久(あまごつねひさ)が
伯耆へ侵攻を開始。
尼子経久は月山富田城(安来市)根拠。
『伯耆民談記』(1742年成立)には、1524(大永4)年5月に
経久が大軍を率いて出雲から伯耆へ攻め込んだとあるが、
実際はそれ以前からたびたび侵攻を繰り返していたと
考えられる。
1530年代に入ると、尼子氏の勢力が東伯耆にも及ぶ。
この頃、尼子詮久(あきひさ)(のちの晴久(はるひさ))率いる
尼子軍は、上洛を目指して美作や播磨への軍事侵攻を
繰り広げていた。
この動きを受けて、南条氏・小鴨氏をはじめとする
東伯耆の国人たちは美作の国人たちと手を結んで
詮久に対抗する。
しかし軍事力に勝る尼子軍に敗れ、以後は尼子氏に従う。
03-02 尼子・大内の戦いと南条氏
『羽衣石南条記』によれば、
南条宗勝は、1563(永禄6)年に父親の33回忌を
営んでいることから、この頃は宗勝が南条家の
実質的な当主だったようです。
羽衣石南条記:江戸時代の享保7(1722)年に成立した全2巻の軍記物。編著者は蘆葉舎似猿人。異本に『南条民語集』がある
この頃の宗勝は「国清」と名乗っていた。
「宗勝」というのは剃髪(ていはつ)後の法名であり、
「国清」が当時の宗勝の実名であったと考えられる 。
尼子氏に従った南条国清は、
1540(天文9)年に尼子軍の一員として
毛利氏の本拠郡山城(広島県安芸高田市)攻めに動員される。
しかし、この戦いで尼子軍は大敗し、
敗れた国清は敵方である大内氏に投降した。
その2年後、今度は大内軍が出雲国へ攻め込み、
尼子氏の本拠である富田城(島根県安来市)を攻撃した。
このとき、南条軍は大内軍の先導を務める。
しかし、この戦いで大内軍は惨敗し、
国清は再び敗者となる。
尼子氏に従った南条国清は、
1540(天文9)年に尼子軍の一員として
毛利氏の本拠郡山城(広島県安芸高田市)攻めに動員される。
しかし、この戦いで尼子軍は大敗し、
敗れた国清は敵方である大内氏に投降した。
03-03 南条氏の因幡・美作への退去
南条国清は、 大内・尼子の戦いの中で、
2度にわたって敗北を喫したが、 その後の動向は
定かでない。
当時の東伯耆は実質的に尼子支配下にあったため、
羽衣石への復帰は容易に実現しなかった。
03-04 南条氏の羽衣石城復帰
南条国清の羽衣石への復帰が実現するのは、
1562(永禄5)年のこと。
この頃、中国地方では尼子・大内氏の勢力が後退し、
毛利元就が勢力を広げていた。
毛利氏の勢力は山陰方面へも及び、
国外に退去していた他の伯耆国人たちも
毛利氏の支援を受けながら次々と帰国した。
約20年ぶりに羽衣石城に戻った国清は、「元清」と改名。
この「元」は当時の毛利家当主である毛利隆元の
一字を授かった可能性もある。
その後、北条八幡宮など南条家と所縁の深い
東伯耆の神社に社領の寄進や神主職の安堵などを行い、
地域基盤の回復に努めた。
翌1563(永禄6)年5月、但馬の円通寺(兵庫県豊岡市)から
花庵という僧侶を呼んで
伯耆国の光孝寺(現山名寺、倉吉市巌城)で
父親の33回忌を営んでいる。
03-05 毛利氏の東伯耆支配と南条氏
光孝寺で法要を営んだ頃、元清は剃髪して、
法名「宗勝(そうしょう)」を名乗る。
以後は「豊後入道宗勝」という名で史料に登場する。
1564(永禄7)年、宗勝は伯耆国人らを率いて
鹿野城(鳥取市鹿野町)を攻撃。
これが宗勝にとって羽衣石復帰後の最初の
大きな戦いだった。
この戦いで宗勝は勝利をおさめ、
毛利元就からその働きを賞賛され、
毛利氏から東伯耆3郡(河村・久米・八橋郡)の
統治を任され、毛利氏の山陰支配の一翼を担っていく。
伯耆最大の戦国武将に成長した宗勝は、
1575(天正3)年に「不慮の病死」を遂げる。
一説には杉原盛重に毒殺されたと言われる。
宗勝の死去により南条家中は不安定な状況に陥る。
翌1576(天正4)年には毛利と織田の対立が表面化し、
信長の誘いの手が東伯耆へも伸びている。
宗勝の後を継いだ南条元続が毛利を離反して
織田方に寝返るのは、宗勝の死から3年後のこと。
以上 鳥取県資料
「南条宗勝にみる戦国武将の生き方」
を参照させていただきました。(感謝)
04 武家家伝_南条氏
武家家伝_南条氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/
を参照させていただきました。(感謝)
多少重複があります。
南条氏
家紋: 夕顔
(宇多源氏佐々木氏流塩冶氏流)

戦国時代、伯耆国東部の羽衣石城に拠り
伯耆守護 山名氏を凌駕する勢力を誇った南条氏は
近江源氏佐々木氏の一族と伝えられる。
『羽衣石南条記』などによれば、
塩冶高貞の子高秀が貞治五年(1366)伯耆羽衣石に城を築き、
南条伯耆守貞宗と名を改めたとしている。
また『因幡民談記』では初代貞宗は明徳二(1391)年に没し、
以後「嫡子宮内少輔景宗、
景宗の嫡孫但馬守宗貞、
其の子宗皓、
嫡子豊後守宗元」の系譜をあげ、
伯耆守護山名氏に属して発展していったと記している。
『羽衣石南条記』(うえしなんじょうき)は、江戸時代の享保7(1722)年に成立した全2巻の軍記物。編著者は蘆葉舎似猿人。異本に『南条民語集』がある。
『因幡民談記(いなばみんだんき)』は、
江戸時代に鳥取藩の侍医・小泉友賢が20年余りをかけて
各地を巡り収集・編纂した、因幡国(現・鳥取県東部)最古の
歴史書・地誌
- 著者: 小泉友賢(こいずみ ゆうけん)
- 完成年: 1688年(元禄元年頃)
- 構成: 8部10巻(最多文量の [国主之部] を中心とする)
- 特徴: 因幡国の歴史、神社仏閣、名所旧跡、伝説、
戦国期の記録などが広く記されている
現状と資料
- 自筆の原本は、1720年(享保5年)の鳥取大火で焼失した。
- 現在は後世に伝えられた複数の写本によって
その内容を知ることができる。 - 近代には『因伯叢書(いんぱくそうしょ)』などに収録され、
国立国会図書館や各大学のデジタルアーカイブ等で閲覧可能。
内容や詳細はNext Digital Library 因幡民談記や
Wikipedia 因幡民談記などで確認できる。
南条氏が祖とする塩冶高貞は塩冶判官として知られ、
元弘の乱に活躍して出雲・隠岐守護に補任された。
ところが、高貞の妻に懸想した高師直の讒言によって京都を出奔、
山名時氏・桃井直常ら幕府軍に追われ
播磨国影山において自害した。
この高師直の一件は、「仮名手本忠臣蔵」として
世に流布しているが真偽のほどは定かではない。
『訳文大日本史』には、
「高貞、二子あり、母に従ひて出でて走りしが、
長子は母と同じく陰山で死したれば、
八幡六郎、次子を覓めて窃に路傍の僧に託し、
携へて出雲に至らしめたるに、
既に長じて、弓矢に便ひ、佐々木氏頼に依りしを、
宗人、呼びて出雲殿となせり」と、
高貞の次子が助けられたことを記している。
そして、高秀は旧臣の妻の尼にひきとられて
越前国南条郡宅良谷で成長、
南条を名乗るようになったのだという。
04-01 南条氏の出自考察
南条氏の初期については、同時代の記録や史料が乏しく、
系図も後世に編纂されたものであり信憑性に欠けるものである。
さらに南条氏の初代とされる貞宗が生まれる前に、
伯耆には南条氏が存在したことが知られている。
建武三(1336)年の『小早川文書』に、
高師直が建武三(1336)年11月24日に施行状を下して、
南条又五郎に 「伯耆国富田庄内天万郷一分地頭職」 を
小早川氏に沙汰付けするよう指令しているのである。
この文書から南条又五郎は
伯耆守護の任にあった可能性が指摘されており、
又五郎は伯耆における有力武士であった。
文和三(1354)年の足利尊氏判物写にも
「伯耆(中略)神田庄南条又五郎跡」とみえ、
南北朝時代のはじめに南条氏を名乗る
有力者がいたことが確認される。
ついで小鴨氏系図の氏基の項に
「母は南条壱岐守元伯女」とあり、
「元弘元(1331)年3月15日、足利尊氏卿より加冠の時、
氏の字を契約」とあり、
氏基は尊氏のもとで元服し
偏諱を受けたという。
小鴨氏は古代より伯耆に勢力を有した氏族であり、
その小鴨氏と縁組をした南条氏は相当の豪族であり
羽衣石南条氏であったと考えられる。
このように南条氏初代貞宗が羽衣石に拠る以前に
南条氏を名乗る武士が存在した。
そして、倭文神社に伝来した
「南条宗勝・元続連署願文」の署名は、
「伯耆国住賀茂朝臣南条豊後入道宗勝」
とあり南条氏は賀茂朝臣を称している。
さらに『伯耆民談記』には、
「干時天正五年卯月吉日(中略)奉遷宮牛頭天王棟上一宇、
大檀那加茂氏南条元続」、
「天正二十壬辰年二度建立奉修造三所権現、
大檀那加茂氏南条虎熊元忠、同左衛門督元清、
武運長久家門繁栄之処(後略)」
**** 天正5年:1577年 天正20年:1592年
とみえ、
戦国時代後期の天正年間、宗勝・元続・元忠の
南条氏三代が加茂氏を称していたことが知られる。
ところで、南条氏の系図としては
佐々木氏流塩冶氏から分かれたとする
「羽衣石南条系図」が、
倉吉市史などにも掲載されて世に流布している。
一方、『系図総覧』に収められた「南条氏系図」は
「伯耆、平氏、家紋夕顔」とあって、
南条紀伊守某から書き起されたものである。
宇多源氏なのか、加茂姓を称する古代豪族系なのか、
さらには平氏なのか、南条氏の出自に関しては
探るほどにに混沌の度を深める。
目結と輪違
南条氏の家紋は「夕顔の花」という珍しいもので、
まず南条氏の独占紋である。
南条氏が分かれ出た近江源氏は「目結紋」が代表紋であり、
塩冶氏は『見聞諸家紋』に記載の通り
「花輪違い紋」を用いていた。
そして、出雲に広まった佐々木一族は
挙って「花輪違い」「目結紋」を用いており、
家紋のうえからも南条氏の出自を
近江源氏に求めるのは疑問が残る。
・家紋 : 目結紋と花輪違紋(右)

04-02 南条氏の発展
さて通説によれば南条貞宗には、
嫡男宮内少輔景宗、
二男で僧籍に入った機堂長応、
三男尼子右衛門尉経時の三人の男子があった。
注目されるのは三男経時に「雲州尼子経久この末葉なり」
とあることで、尼子氏は塩冶氏と同じく佐々木氏の分れで、
南条氏が佐々木氏の流れであることを示唆したものであろうか。
貞宗は明徳二(1391)年に没し、
景宗が後を継ぎ「この人武勇父に劣らず」とあるものの貞宗と同様、
その事績は不明。
景宗四代の孫但馬守宗貞は
永正十一(1514)年に九十一歳で没したとあることから、
嘉吉の乱のころから応仁の乱、
そして戦国時代のはじめまでの動乱期を生き抜き
「代々山名氏の下知を受けて家運栄へ行けり」
とある如く東郷荘を中心に
南条氏の勢力拡大に努めた人物であったといえよう。
南条氏が属した伯耆守護山名氏は但馬山名氏の庶流で、
応仁の乱に際して 伯耆守護山名教之は、
国衆「小鴨・南条・進・村上」らを率いて上洛したが、
そのなかの南条は但馬守宗貞であったともみなされるが不詳である。
伯耆山名衆は山名宗全に従って、
東軍の赤松政則の軍と山名相模守らが討死する激戦を展開した。
応仁の乱において伯耆は西軍、
隣国の出雲は東軍という図式であった。
出雲では佐々木京極氏の守護代尼子清定が奮戦、
その矛先は伯耆へと伸びてきた。
文明四(1472)年、伯耆守護 山名教之は急ぎ伯耆に帰国すると
尼子勢の侵攻に対した。
翌年、教之が死去すると、嫡男の豊之はすでに死去していたため、
守護の座をめぐって政之と元之とが家督を巡って対立した。
その背景には打ち続く戦乱のなかで
国人領主たちの自立化が進み、
守護の威令が行なわれなくなったことにあった。
この伯耆山名氏の内訌に際して南条氏は、
元之を擁して政之と対立した。
伯耆守護職は政之が任じられたが、
元之を擁する国人領主たちの抵抗は続き、
鎮圧に苦しんだ政之は但馬山名政豊の応援をあおいだ。
そして、元之方の拠る法勝寺城は陥落、
南条下総入道や赤松氏被官の中村五郎左衛門尉らが討死した。
下総入道は但馬守宗貞の兄弟に比定されるが、
その経歴は不明である。
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法勝寺城
所在地: 〒683-0341 鳥取県西伯郡南部町鴨部158
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元之を擁する国人の反乱の背景には
播磨・備前・美作の守護職を回復した赤松政則の暗躍があり、
但馬守護 山名政豊は播磨・備前を回復するため行動を起こした。
しかし、播磨の回復がならなかったばかりか、
国人衆・一族の離反を招いて領国経営に破綻をきたした。
元之の一派はふたたび蜂起したが、
南条氏らが討ち取られて元之は美作に奔って没落した。
この一連の争乱が伯耆を一気に戦国時代へと押し流し、
乱をしぶとく生き抜いた南条氏は
守護山名氏に対抗する勢力に成長していた。
城址分布図伯耆の擾乱[ジョウラン]
(図 09_伯耆備前勢力 参照)

十五世紀の末期、隣国出雲は清定のあとを継いだ
経久が富田城に拠って一国を支配下に置くようになり、
十六世になると尼子勢力が伯耆にも伸長してきた。
そのころ伯耆山名氏は守護職に任じる
尚之と一族の澄之が 対立関係にあり
「国総劇」と呼ばれる内乱状態にあった。
山名氏すでに権威を失墜していて、
伯耆は南条・小鴨・山田・小森・行松らの
国人領主が割拠する状況であった。
このころ南条氏は宗元の時代で、
宗元はのちに入道して宗勝と号した。
山名氏の内訌に乗じた尼子経久は
澄之を支援するかたちで伯耆への進攻を繰り返し、
澄之が尚之を倒して 守護職に就いた。
大永四(1524)年5月、経久の大攻勢が行なわれて、
倉吉打吹城主 山名澄之をはじめ、尾高城主 行松入道、
北条堤城主 山田氏、 岩倉城主 小鴨氏、
羽衣石城主 南条宗勝らは
因幡山名氏、但馬山名氏らを頼って伯耆から没落した。
世に「大永の五月崩れ」といわれる動乱で、
伯耆一国は尼子氏が支配するところとなった。
この尼子氏の侵攻によって神社仏閣などが焼失して
数多の史料が失われ、
伯耆の戦国時代は分かり難い状況になったという。
経久の侵攻によって西伯耆の行松氏、
村上氏らは国外に退去したようだが、
東伯耆の南条氏、小鴨氏らは勢力を保持し、
美作の国人領主たちと結んで尼子氏に抵抗を続けたようだ。
尼子氏では晴久が家督を継ぎ、
美作・播磨への侵攻を開始した。
これに対して南条・小鴨・山田らの東伯耆の領主たちは
連合して尼子軍に対した。
その抵抗は五年にわたって続いたというが、
尼子氏の強大な軍事力の前に南条氏は小鴨氏とともに屈服、
堤城主の山田氏は但馬山名氏を頼って伯耆から退去していった。
尼子氏に降った南条氏ら東伯耆衆は、
天文九(1540)年、尼子晴久の安芸郡山城攻めに従軍して
郡山城下で毛利勢と戦った。
しかし、晴久の毛利攻めは失敗に終わり、
逆に大内義隆が尼子氏の居城月山冨田城を攻撃した。
そのとき、南条氏ら伯耆衆は大内氏に転じて先陣をつとめ、
富田城攻めに従軍したことが知られる。
文字通り、戦国乱世における弱小豪族は
強者に翻弄される辛い立場にあった。
大内氏の尼子攻めは失敗に終わり、
東伯耆は尼子氏の勢力が伸び、南条氏らは流浪の身となった。
これら一連の流れが「大永の五月崩れ」として脚色され、
軍記物語などに 書き残されたものであろう。
羽衣石城と領地を失った南条宗元のその後の動向は
不明なところが多いが、
残された文書などから、
但馬山名氏を頼り、
因幡の武田山城守らのもとにあったようだ。
毛利氏に通じる武田氏と尼子氏の対立が激化すると、
宗元は因幡を離れて美作に移り、
さらに播磨から安芸、さらに出雲を転々とした。
こうして、宗元の流浪生活は二十年以上に及んだ。
・右図: 伯耆・因幡-国人・城址分布図
(図 09伯耆備前勢力 前掲 参照)
04-03 南条氏の生々流転
宗勝が不遇をかこっている間に、
大内義隆は陶晴賢の下剋上で殺害され、
その陶晴賢を倒した毛利元就が
尼子氏を凌駕する勢力に台頭した。
備中の三村氏を支援して備中を支配下におき、
因幡の武田氏、美作の草刈氏らと結び、
尼子氏をじわじわと追い詰めていった。
さらに尼子晴久が死去したことで毛利氏の優勢は決定的となり、
永禄五(1562)年、南条氏をはじめ行松氏、
山田氏ら伯耆の国人たちは毛利氏の援けをえて
それぞれの旧領に復帰した後、
寺社への所領安堵を行なうなど所領支配に努め、
翌六年には父親の三十三回忌 を営み、
ほどなく髪をおろして宗勝と号した。
以後、南条宗勝は無二の毛利方として行動するようになった。
やがて、因幡では山名豊数と武田高信とが
対立抗争するようになると、
毛利氏は高信を支援したため
劣勢となった豊数は天神山城を逃れて鹿野城に立て籠もった。
南条宗勝は山田重直とともに毛利軍に加わって
鹿野城を攻撃、山名豊数は没落した。
但馬山名氏が因幡に進攻してくると、
宗勝は山田氏らとともに山名勢と対峙した。
永禄九(1566)年、月山富田城が陥落して
尼子氏は毛利氏に屈服した。
毛利氏は出雲を支配下におき、
宗勝は羽衣石城主として東伯耆の支配を任せられた。
毛利氏と豊後大友氏の戦いも激化し、
宗勝・山田重直、日野衆ら伯耆の武士たちも
九州へ出陣して大友勢と戦った。
一方、毛利氏に降った尼子氏の残党は、
山中鹿之助を盟主として尼子氏再興を図り、
尼子勝久をかついで挙兵の機会をうかがっていた。
そして永禄十二(1569)年、山陰の毛利勢が
九州に出陣している留守をついて兵を挙げた尼子党は、
但馬山名氏の応援を得て出雲に侵攻した。
尼子党には因幡や伯耆の国人らが味方して、
岩倉城・八橋城など尼子方に落ちた。
翌元亀元(1570)年、南条宗勝や
西伯耆を任されている杉原盛重らが帰国して
尼子方に反撃、尼子党の城塞を攻略、
翌年の夏ごろには尼子勢力は伯耆・因幡から一掃された。
『伯耆民談記』によれば、
元亀元(1570)年、宗勝は家督を
嫡子勘兵衛元続に譲って隠居したとある。
宗勝は、天正三(1575)年、富田城に出仕して
吉川元春に謁してのち杵築大社へ参詣、
その帰途大山に登り、尾高城にも立ち寄って
杉原盛重の饗応を受けて羽衣石城へと立ち帰った。
その後、急病を発し、帰らぬ人となった。
死に臨んだ宗勝は、嫡子勘兵衛元続を始め
次男小鴨左衛門尉元清、
三男九郎左衛門元秋等の一族を枕元に呼び寄せると、
「毛利家に対し、等閑の所存ゆめゆめあるべからず、
当家を再び引き興したること皆毛利家の恩誼なれば…」
と毛利氏への忠誠を固く遺言したという。
さらに、毛利家臣で羽衣石に派遣されていた
山田重直に若き元続の後見を頼んだという。
宗勝の死後、南条元続・小鴨元清兄弟は
吉川元春・元長父子に忠誠を尽くすことを誓い、
起血判請文を差し出している。
同時に南条氏の一族、重臣ら一同も元続に対する忠誠と、
吉川(元治)氏への忠誠を誓った。
しかし、京を支配下においた織田信長の勢力が
中国地方に及んでくると、
南条氏を含む因幡・伯耆・美作・備中など境目の領主たちには
動揺が走るようになった。
『羽衣石南条記』によれば、
宗勝の父宗皓の没年を永正十一(1514)年としている。
これが正しいとすると、永禄六年の法要は
三十三年忌ではなく五十年忌に当たる。
であるならば、長い流浪生活のなかで
宗勝も老境にさしかかっていたことになる。
04-04 戦国時代の終焉
天正元(1573)年、足利義昭を追放して
室町幕府を滅ぼした織田信長は、
天正三(1575)年、長篠の合戦で甲斐武田氏を破ると、
羽柴秀吉を大将として中国に兵を進めた。
こうして、毛利氏は織田信長と鉾を交えるようになり、
天正五(1577)年、羽柴秀吉の弟秀長が但馬に進攻した。
しかし、播磨三木城主の別所氏が
毛利方に転じて信長に反旗を翻したため
播磨に兵を帰した。
播磨を平定すると、天正八(1580)年正月、
秀吉は弟秀長をふたたび但馬に出陣させ、
みずからは伯耆・因幡へと兵を進めた。
南条元続が毛利方から織田方に転じたのは、
第二次但馬攻めが開始される前の
天正七(1579)年の後半ごろであろうといわれる。
元続の変心を察した山田重直は命の危険を感じて
羽衣石城を脱出、堤城に逃れたが元続に攻められ、
さらに鹿野城に奔って毛利氏への節を貫いた。
のちに南条氏は滅亡したが、
山田氏は長府毛利氏の重臣として続いた。
元続の変節によって、麾下に属していた国人衆は
織田と毛利とに分裂して対立するようになった。
天正八(1580)年、羽柴勢が因幡に進攻してくると、
元続は因幡の気多郡に出陣して羽柴軍に助勢した。
羽柴勢に対する吉川元春は羽衣石城に対する攻撃を決意し、
杉原勢を先陣として押し寄せた。
両軍は長瀬川を挟んで対峙し、
やがて杉原勢の渡河によって激戦を展開、
敗れた南条勢は羽衣石城に立て籠もって吉川勢の攻撃を防戦した。
天正九(1581)年6月、羽柴秀吉自ら因幡鳥取城に出陣、
有名な鳥取城攻めが始まった。
鳥取城の後詰に出陣した吉川元長は
杉原らとともに羽衣石城に攻め寄せたが、
南条勢も必死で拮抗戦、激戦が繰り返された。
南条方は吉川勢を羽衣石に食い止め、
十月、鳥取城将吉川経家が自刃して鳥取城は落城した。
元続らの奮戦によって吉川勢が鳥取城を救援できなかったことが、
羽柴勢勝利の一因となった。
その後、羽衣石城は吉川勢に対する最前線となり、
元続はみずから出撃するなどして吉川氏との対峙を続けた。
翌天正十(1582)年6月、京の本能寺で織田信長が
明智光秀の謀反で横死したことで、時代は新たな局面を迎えた。
本能寺の変は南条氏にも影響を及ぼし、
重臣の進藤・秋里らが山田重直に内通、
おりからの祭礼に元続がでかけた留守をねらって
山田氏を羽衣石城へと迎え入れたのである。
城兵は抵抗したが、元続らは僅かの従者とともに
羽衣石から脱出した。
翌年、秀吉の後援をえて羽衣石城を回復した元続は、
西伯耆に兵を進めるなどして領国の安定に努め、
東伯耆を領有する豊臣大名の一員となった。
以後、天下統一を進める豊臣(羽柴改め)秀吉麾下の大名として、
天正十五(1587)年には九州島津攻めに出陣して
感状を受ける戦功を挙げたが、
間もなく中風にかかり、天正十九(1591)年7月に病没した。
子の元忠が跡を継いだが、
幼かったため叔父の小鴨左衛門尉元清が後見を務めた。
そして、文禄・慶長の役に際して
小鴨元清が南条軍を率いて出陣し、
秀吉の死後、無事に帰国を果たした。
04-05 南条氏の最期
秀吉の死後、豊臣政権は五大老筆頭の徳川家康派と
奉行衆として政権を牛耳る石田三成派とに分かれて
不穏な空気が漂うようになった。
慶長五(1600)年、関が原の合戦が起こった。
三成から誘いを受けた南条元忠は、
重臣を集めて南条氏の行く道を協議した。
家中の意見は二つに分かれて紛糾したが、
「西国の大名の多くが石田に味方するなかで、
徳川方につけば、たちまち隣国の諸将の攻撃にさらされて
滅亡は必至だろう」という意見を容れて
元忠は石田方への味方と決し、伏見・大津城攻めに従軍した。
結果は西軍石田三成の敗北に終わり、
南条元忠も所領没収の処分を受けて南条氏は没落した。
『伯耆民談記』によれば、
羽衣石城をはじめ出城のたぐい、
南条氏ゆかりの神社・仏閣などすべて徳川方の手の者によって
焼き払われたと伝えられる。
大坂の陣が起こると
元忠は旧臣とともに大坂方に味方して大坂城に入り、
平野橋口の守備に任じたという。
ところが、徳川方より伯耆一国を条件として裏切りを誘われ、
それに応じた元忠は東軍方を招きいれようとしたところを見つかり、
大坂城内で切腹させられてしまった。
なんとも呆気ない最期だが、ここに南条氏の嫡流は滅亡したのであった。
【参考資料:鳥取県史・鳥取県史タブレット・
東郷町史・倉吉町史・日本城郭体系 など】
■参考略系図
・「羽衣石南条系図」をベースとして、
「尊卑分脈」 「群書類従系図部」所収の佐々木氏系図などから作成。
(図 10_南条氏系図 参照)

05 南条氏の系譜
(出典:ウイキペディア 感謝)
南条氏概要
歴代当主
初代 南条貞宗 – 伯耆守と名乗る。
2代 南条景宗 – 官位は宮内少輔、
景宗寺(現在は廃寺)建立。
3代 ~ 5代 不明
6代 南条宗賢 – 官位は但馬守。
7代 南条宗皓 – 官位は越前守。
8代 南条宗勝 – 官位は豊後守。
9代 南条元続 – 官位は従五位下、左衛門尉、伯耆守。
10代 南条元忠 – 官位は中務大輔、
大坂城内にて切腹と伝えられる。
系図
南条貞宗
┣━━━┳━━━┓
景宗 機堂長応 尼子経時
┃
某
┃
某
┃
某
┃
宗賢
┃
宗皓
┣━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┓
宗勝 元信 信正 宗信
┣━━━┳━━━┓ ┃ ┣━━┓
元続 元清 元秋 元周 信光 隆光
┣━━━┳━━━┳━━━┓
兼保 千代姫 元忠 宗続
そのほかの南条一族
南条又五郎
南条元伯
南条国清
南条家家臣団
山田重直
津村基信
小森方高
一条清綱
鳥羽久友
進下総守
山田畔助
山田越中守(山田久清のことか)
広瀬若狭守
山名氏豊
川口久氏(元・山名氏)
知足院宗省
泉養軒長清
※ このほか、中村氏、豊嶋氏、油木氏、
春日氏、相賀氏、由良氏、越振氏などが
確認される。
(画像 10_2 南条氏家系図 参照)
06 南条元続
南条元続(1549-1591・南条家8代当主)は
1575年(天正3年) 26歳 父 宗勝の死により家督相続
吉川元春から家督及び所領を安堵される
この頃までは毛利方であった。
ところが織田信長の勢力が因幡国へも伸長して来、
織田方の誘いがあったと思われる。
元続は家督継承の後、福山次郎左衛門の誘いに乗り
密かに織田氏と連絡を取る。
尼子氏の遺臣・福山茲正の仲介で毛利氏から離れ、
織田氏へと気脈を通じるようになった。
1579年(天正8年)9月、元続30歳、
福山茲正らを殺害した重臣の山田重直の居城・堤城を攻撃、
重直・信直父子を鹿野へ敗走させ、毛利氏と完全に決裂。
1581年(天正9年)、元続32歳
豊臣秀吉の鳥取城攻撃の際、羽衣石城にあって
毛利氏の鳥取救援を妨害し、鳥取落城を早める一因を作った。
1582年(天正10年)9月、元続33歳
毛利氏の猛攻を受けて羽衣石城は落城するが、
1584年(天正12年)、元続35歳
羽柴氏と毛利氏の和睦により、
八橋川以東の伯耆東3郡6万石(一説に4万石)の
領有を認められ、羽衣石城に復帰。
1584年(天正12年)11月、吉川元春が馬の山に陣し、
羽衣石城主南条元続と戦った時、上橋津に火を放ったので
堂舎も記録も焼失した。
以後は秀吉の傘下に入り、九州征伐にも
亀井茲矩、宮部継潤、荒木重堅、垣屋光成らとともに加わる。
1587年(天正15年)7月27日 元続38歳
従五位下・右衛門尉に補任された。
後に伯耆守に補任されるも中風を病んで政務を行えなくなり、
代わりに弟の小鴨元清が政務を執ったが、
1590年(天正18年)元続41歳 小田原征伐には自ら出向いた。
1591年(天正19年)7月17日、病没。享年43
同国久米郡定光寺と羽衣石城下の景宗寺に葬られた。
注
「羽衣石南条系図」「聚楽武鑑」などでは
1591年に43歳没とあるが、1593年2月に比定される
秀吉発給の元続宛ての書状が残っており、
1591年以後もしばらくは生存していた可能性もある。
07 山田氏
鳥取県史料
因幡・伯耆の戦国武将たち(4)―山田重直について―
を参照しました。(感謝)
戦国時代の因幡・伯耆は周辺大名がぶつかり合う狭間に置かれ、
数多くの戦いに見舞われた。
その中で、この地域の武将たちは、
戦線においてさまざまな役割を担いつつ、
乱世の時代をたくましく生きていた。
山田重直について
山田氏は久米郡北条郷山田荘(北栄町北尾)を本拠とする一族で、
嶋村の堤(つつみ)城を居城としていた。
16世紀前半、山田重直の代に尼子氏が伯耆へ侵攻。
このとき、重直は国外に退去し、
但馬山名氏の庇護(ひご)を受け、一時的に長田氏を名乗る。
永禄5年(1562)に毛利元就が因幡へ進出すると毛利氏に属し、
同9年には「出雲守」に任じられる。
その後、毛利から伯耆東三郡(河村・久米・八橋郡)を安堵された
羽衣石(うえし)城主南条氏の奉行衆に加えられる。
しかし、天正7年(1579)南条元続が毛利離反時に、
家中を離れて毛利方の吉川氏に属し、
以後は東伯耆の東郷池周辺で南条軍と交戦。
その後も一貫して吉川氏の配下として、
関ヶ原合戦後は吉川広家とともに
岩国(山口県岩国市)に移住。
なお、戦国時代には、同時期に2人の
「山田出雲守」が存在。
1人は萩山田家の系統の人物であり、
1人は岩国山田家の系統。
このうち重直は、
後者の岩国山田家の系統を引く人物。
岩国徴古館には、
山田家に伝来した100点を超える文書が残されている。
07-01 南条氏の毛利離反と山田重直
1570年代頃、重直は毛利氏によって南条家に送り込まれ、
南条氏の奉行衆の一部を構成していた。
当時の重直は毛利氏と南条家を結ぶ
窓口的役割を担っていたと思われる。
しかし、毛利と織田の対立が深まる中、
天正7年秋頃、南条氏が毛利氏に反旗を翻し、織田方に寝返る。
このときの家中の動きを整理してみる。
当時の南条家の当主である南条元続は、
かねてより毛利に対して不穏な動きをみせていた。
そのため、毛利側は山田重直を通じて、
元続に対して人質の提出を再度命じる。
しかし、元続はこれを受け入れず、
それどころか、元続自身が重直の居館へ押しかけ、
重直の命を奪おうとする。
これに対して、山田重直・元直の父子は
かろうじて難を切り抜け、鹿野へ逃れた。
その後、元続は毛利氏に対して
「自分たちは謀叛(むほん)の意思はない」
と血判の起請文(きしょうもん)を出して弁明するが、
毛利方の不信感を払拭することはできず、
同年11月には織田方の宇喜多氏と内通していることが判明。
以後は毛利方と敵対する。
07-02 山田重直と南条元続の戦い
天正8年(1580)以降、
東伯耆の東郷池~羽衣石城周辺は、
毛利勢と南条勢がぶつかり合う舞台となり、
各地で激しい攻防戦が繰り広げられた。
このとき毛利方として最前線で活躍したのが山田重直。
重直は伯耆国最大の戦国武将である南条氏を相手に
さまざまな戦いを仕掛けた。
天正8年(1580)11月には、山田配下の馬田長左衞門や赤木某を
はじめとする軍勢が、
南条氏の重臣の一人である泉養軒(せんようけん)長清の館を
襲った。
このときの夜襲で山田軍は南条兵数十人を討ち取るとともに、
人質として捉えられていた重直の息女の救出に成功。
またこのときの攻撃で南条方の兵十人余りが
毛利方へ寝返った。
また、天正9年(1581)7月頃には重直勢は羽衣石城周辺に
「野伏(のぶし)」を派遣し、各地で待ち伏せを行った。
当時、秀吉が2万の大軍を率いて因幡に攻め込んでおり、
南条氏は軍事的支援を取り付けるため、
何度か秀吉に使者を派遣した。
これに対し、山田勢は各地で待ち伏せを行ったり、
通路でのゲリラ的攻撃を通じて、
秀吉軍と南条軍のつながりを断ち切った。
さらに、同年8月には、長瀬表(湯梨浜町)で
南条軍が「苅田(かりた)」を行っているところを、
軍勢を派遣して討ち取った。
このほかにも、関係資料をみると、
天正8~9年に、山田勢は東郷池周辺や南条氏の本拠である
羽衣石城周辺で実にさまざまな攻撃を仕掛けた。
個々の戦いの規模は決して大きくはないが、
それは着実に南条勢にダメージを与え、
切り崩しに成功している。
07-03 山田重直の軍事力について
当時の山田重直の軍事力はどのようなものだったのか。
関係資料からは、重直の軍事力について、
以下のような特徴が指摘できる。
その1つは「案内者(あないもの)」の存在。
案内者とは、合戦などにおいて
現地の案内役を務めるだけでなく、
戦線地域の郷村の懐柔や調略などを行って、
戦線地域と大名権力を結びつける接点としての
役割が期待された者たち。
そのため案内者の任にあたる者は
地域社会における指導者的な人物であることが求められた。
先ほどの馬田長左衞門も案内者の1人で、
地域の指導者クラスの人物であったと考えられる。
第2に、敵方の「落人(おちうど)」(戦いに敗れて降伏した兵)を
軍勢に加えている。
先ほどの赤木某については、もと南条氏の配下だったが、
夜襲をかける3日前に、使者を送って毛利方への降伏を
申し出た「落人」であり、
毛利方もこれを受け入れている。
羽衣石城周辺に詳しい「落人」を案内役に加えたことが、
人質の救出を可能にしたものと思われる。
第3に「野伏」「足軽」を編成していること。
「野伏」「足軽」とは地侍や農民の武装集団のこと。
兵農未分離の時代には、多くの土豪や農民たちが武器を保有し、
「野伏」や「足軽」として合戦に参加した。
重直の戦いではこの「野伏」「足軽」たちの活躍が多くみられる。
このように、重直の戦いでは「案内者」「落人」「野伏」
などの働きが顕著だった。
重直は南条氏を攻撃するにあたり、
羽衣石城周辺の地理や羽衣石城内の事情に精通し、
郷村の調略にも長けた人物を軍勢に取り込むとともに、
土豪・農民ら地下人による「野伏」を自軍の中に編成した。
このことが敵地における夜襲などの奇襲戦法や
ゲリラ的な戦いを可能にしたと思われる。
当時の山田重直の軍勢は、
このように地域社会の指導者層や在地の事情に
詳しい者たちとの深い結びつきのもとに構成されていた。
山田勢が個々の戦いで討ち取った敵兵の数をみると、
1人から数人程度のものがほとんど。
おそらく大部分の戦闘行為はゲリラ戦を中心とした
小規模なものだったと思われる。
しかし、「境目」地域社会の事情に詳しい者たちを
自軍に取り込むことによって、数々の戦果を収め、
それが着実に南条勢の切り崩しにつながっていった。
07-04 羽衣石落城と山田重直
このように、山田重直は、地侍・土豪・百姓を含めた
東伯耆地域社会を味方につけることのできる存在だった。
ゆえに、毛利輝元が
「彼者(重直)の事は方角別して馳走入魂の者に候間、
我らにおいて少しも忘却存ぜず候」
と述べているように、
毛利方にとっては南条氏との戦いを優位に進める上で
不可欠の存在であった。
では、山田氏と南条氏の攻防はその後どうなったか。
天正10年(1582)7月、(秀吉の中国大返しの後)
山田重直は
東郷池南部の高野宮(たかのみや)城(湯梨浜町埴見)へ在番し、
羽衣石城と対峙していた。
当時、毛利氏の主力は本能寺の変後の秀吉との領地交渉のため
備前国に集まっており、伯耆への援軍は困難な状況だった。
このとき、毛利氏は重直宛ての書状の中で
「東伯耆については、自分たちは手出しをしない。」
と告げている。
その理由は定かではないが、
南条氏との戦いは、山田重直をはじめとする
東伯耆の在番衆に託されることになった。
羽衣石城が落城するのはその2ヶ月後のこと。
それは
「羽衣石衆少々申し通じ、固屋以下焼き崩され候」
とあるように、南条勢の中で
毛利方に寝返った者があらわれ、
羽衣石城内でクーデターが起こったことによるものだった。
そして退散する南条勢を山田勢が「退口」で討ち取り、
勝利を収め、羽衣石城を占拠している。
こうして、天正8年(1580)から繰り広げられてきた
山田勢と南条勢の戦いは、南条勢が内部崩壊したことにより、
山田勢の勝利でひとまず幕を閉じた。
小規模ながらも、地域社会を確実に取り込んだ戦いを
展開した山田重直。
一方、秀吉の援軍を待っていた南条氏は、
秀吉軍がほどなく姫路に帰ったため、
結果的に十分な軍事支援を得られなかった。
戦国末期の東伯耆の戦いは、軍事力の規模ではなく、
地域社会とのつながりの差が明暗を分けた
戦いだったのかも知れない。
08 浅津文書
鳥取県史料
浅津文書 2018 鳥取県指定古文書
を参照させていただきました(感謝)
南条元続(なんじょうもとつぐ)から
浅津源三左衛門尉(あそづけんざざえもんのじょう)
に宛てられた感状3点あり。
浅津氏は東郷池の西岸に位置する浅津を拠点とする
地域領主であり、東郷池水運にも関わりがあったと考えられている。
浅津文書は、1575(天正3年)から1581(天正9年)
に発給された文書であり、
毛利氏・尼子氏・織田氏が因幡・伯耆両国を
戦乱に巻き込んでいった天正年間(1573~1592)前半に
おける南条氏や浅津氏の動向を示す史料であり、貴重である。
1.9月12日 南条元続感状(折紙)
私部(きさいち)城(八頭郡八頭町市場)をめぐる戦いにおける
浅津源三左衛門尉の戦功を賞した感状。
2.天正8年12月11日(1580/12/11) 南条元続感状(折紙)
籠城の忠儀を賞し、褒賞を与えることをを約束した感状。
3.天正9年2月10日(1581/02/10) 南条元続感状(モト折紙)
毛利方の城を攻略した際の戦功を賞し、俸禄の加増を約束した感状。
文化財の種別 有形文化財
区分 指定
指定種別 県指定保護文化財
分類 県指定の古文書
所在地 鳥取市鳥取市東町1丁目124(鳥取県立博物館)
指定年月日 令和元年10月23日
所有者等 個人、鳥取県
09 関ヶ原以降の南条氏
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、南条氏は所属した
西軍の敗北により所領を没収され、一族は他国へ逃れ
没落した。
その後、元忠は慶長19年(1614)の大坂冬の陣に際し、
多くの旧臣とともに大坂城へ入り戦ったが、
元忠は徳川方の藤堂高虎と内通していたことが発覚。
家臣とともに大坂城内にて切腹させられた。
元忠の嫡子の南条勘右衛門の家系は
その後鳥取藩に仕え、元忠の曽孫に当たる
南条喜右衛門は郡奉行などの要職に就いた。
南条元清は、仕えていた小西家が関ヶ原の合戦に
敗れて改易された後、同じ肥後国の加藤清正(熊本藩)に
仕え、剃髪して元宅と称した。
元宅が慶長19年(1614)に没すると、嫡孫の元信と
二男の宜政の間で跡目争いが生じた[3]。
元信は細川忠興を頼り、細川家(小倉藩、のち熊本藩)に
3000石で召し抱えられた。
元信の家は、藩主細川忠利の四男南条元知が継いだが
継嗣なく絶家。
宜政は大坂の豊臣秀頼に仕え、大坂の陣においても
大坂方で参戦したが、妻が徳川家臣の水野勝成の
姪であったため、大坂落城時に水野家がこの姪と家族を
保護した。
宜政も水野家に匿われて命を長らえ、
戦後は熊本藩加藤家や津山藩森家に仕えた。
宜政の長男の宗晴は津山藩に仕えたが、
三男の系統は幕臣となった。
旗本南条氏
元清の三男宗俊(源八、与兵衛)は、母(水野氏)が
千姫に仕えていた縁から徳川家に召し出され、
徳川綱重(甲府徳川家・甲府藩)付きの家臣となり、
藩の書院番頭まで上った。
宗俊の長男の宗益が家を継ぎ、徳川家宣が
将軍後継者として江戸城西の丸に入ると
付帯して幕臣となり、西の丸小納戸を務めた。
宗俊の二男の俊宜は水野姓を称して同じく
甲府徳川家に仕え、
三男の元鋪は古河藩土井家に仕え、
四男は旗本立花氏に養子に入った(立花種秀)。
以降、南条家は600石の直参旗本として続いた。
近代
昭和初期に、近畿地方に住んでいた南条宗続の子孫が
私財を投じて羽衣石城跡に模擬天守を建設。
先祖の業績が風化しないようにと石碑を建立。
ただしこの模擬天守は史学的考証に基いた
ものではない。
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