海ゆかばの曲を音にしてみました

海ゆかば ブログ
海ゆかばのイメージ

2025/12/27
1分ほどの曲ですので聞いてみていただければ嬉しいです。
▲印をクリックすれば音が出ます。

昭和20年(1945年)から80年が過ぎました。

日本が戦争で悪いことをしたなどという
いわゆる自虐史観はアメリカによる日本占領政策の
方法として日本人に植え付けられた考え方です。

幸いなことにその考え方がだんだん薄くなって、
今の若い人は日本が戦争で悪いことをしたと
考えてはいないようです。

小野田寛郎少尉が戦後29年目にルバング島から
帰国して、日本の現状にあきれたそうです。

あの頃は何のことだかわかりませんでしたが、
今はよくわかるようになった気がします。

海ゆかばの曲も昔はほとんど歌われませんでしたが
今は歌われることも多くなってきたようです。

同じ歌うなら正しく歌うべきだと思い、
そのために楽譜も作りましたので
参照してもらえればうれしいです。

作曲者 信時潔[ノブトキキヨシ]
作詞 萬葉集 大伴氏言立(言立[コトダテ]:家訓)
大伴家持の長歌の中に出てくる
独唱曲/斉唱曲

1937年(昭和12年)に日本放送協会(NHK)
の委嘱を受けて作られ、第二の国歌とも言われました。

楽譜は東京藝術大学付属図書館蔵のものを参照しました。

作曲者:信時潔(1887/12/29-1965/08/01)
出生名:吉岡潔
大阪府大阪市出身
日本の作曲家/音楽学者/チェロ奏者
東京都にて死去

歌詞
海ゆかば水漬くかばね(屍)
山ゆかば草むすかばね(屍)
大君の辺にこそ死なめ
かえりみはせじ

天平21年(749年)

陸奥国小田郡(宮城県涌谷町)から日本始出の黄金が、
東大寺大仏鍍金のため、聖武天皇に献上された。
天皇は黄金産出の報告に驚き喜び、
産金を告げる宣命を発出。

越中国守として任国高岡にいた家持は、
その宣命に大伴氏言立(家訓)が引用され、
天皇が大伴氏の忠誠功績を讃えたことに感激し
「陸奥国より金を出せる詔書」
を賀ぐ長歌と反歌を詠みました。

反歌「須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流
 美知乃久夜麻尓 金花佐久
(すめろきの みよさかえんと あづまなる 
みちのくやまに くがねはなさく)」
はよく知られている。

長歌は五百三十二文字の長文で、その一節に
「…海行者 美都久屍 山行者 草牟須屍
 大皇乃敞尓許曽死米 可敞里見波勢自等許等大弖
(うみゆかば みずくかばね やまゆかば
 くさむすかばね おおきみのへにこそしなめ
 かへりみはせじとことだて)…」
(万葉集巻十八 ― 四〇九四: 4094首)
と詠み天皇への忠誠を誓った。

大伴氏は新興藤原氏の勢力に押されて
凋落の一途の時でした。
家持は氏の長として一族の団結と奮起を促す
気持を込めてこの歌を詠んだとされます。

大伴家持の生きた時代は、人麻呂の時代とは異なって、
常に内乱の危機をはらんだ政治的動揺の時代であった。

737年に流行した大疫によって、
藤原不比等の子、藤原武智麻呂以下
藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂(いわゆる藤原4兄弟)
が次々と死に、政治的な空白ができたのが原因。

疫病を防ごうと、聖武天皇は、救いを仏教に求め、
仏教布教のシンボルとして東大寺大仏の建立を始めた。
そのさなかに、奥州で金が発見され、
大仏建立(鍍金:メッキ)のために寄進された。

喜んだ聖武天皇は、東大寺に赴いて、宣命を発した。
その中で、黄金の発見が皇祖の恵であることを述べ、
人民にその恵を分かち与えるとともに、
臣下の労をねぎらった。
その際に、大伴、佐伯の二氏に対して、
天皇への忠誠をあらためて訴えた。

大伴、佐伯の両氏は、古くから皇室の「内の兵」として、
特別な家柄であった。
物部氏が国軍を統括するものであるのに対し、
この両氏は天皇の近衛兵のような役柄を勤めてきた。
天皇は、この内乱の危機をはらんだ時代を憂えて、
あらためてことさらに、両氏へ忠誠を求めた。

その宣命の中に、次のような言葉があった。

―大伴佐伯の宿禰は常もいふごとく
天皇朝守り仕へ奉ること顧みなき人どもに
あれば汝たちの祖どもいひ来らく、
海行かば水浸[みづ]く屍[かばね]
山行かば草生[む]す屍
王[オオキミ]の辺にこそ死なめのどには死なじ、
といひ来る人どもとなも聞召す、
ここをもて遠天皇の御世を始めて
今朕が御世に当りても内の兵と
心の中のことはなも遣はす(続日本紀)

「海行かば水浸く屍山行かば草生す屍」の一節は、
大伴佐伯両氏の間に伝わった家訓だった。

この時、家持は越中(長岡)にあったが、
使者を通じて宣命を知り、また贈位を賜った。
感激した家持は、一遍の長編の歌を作り、
天皇の期待に応えた。

この歌の中には、大伴氏の伝統を背負った家持の、
伴造意識が鮮やかに表れている。
我々はそれを読むことによって、
古代における氏族の意識の一端に触れることができる。

―陸奥国より金を出だせる詔書を賀く歌一首、また短歌

 葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける
 すめろきの 神の命の 御代重ね 天の日継と
 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には
 山河を 広み厚みと たてまつる 御調(みつき)宝は
 数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が大王の
 諸人(もろひと)を 誘ひ賜ひ 善きことを 始め賜ひて
 金(くがね)かも たのしけくあらむ と思ほして 下悩ますに
 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に
 金ありと 奏(まう)し賜へれ 御心を 明らめ賜ひ
 天地の 神相うづなひ 皇御祖(すめろき)の 御霊助けて
 遠き代に かかりしことを 朕(あ)が御代に 顕はしてあれば
 食(を)す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして
 もののふの 八十伴の雄を まつろへの むけのまにまに
 老人(おいひと)も 女童児(めのわらはこ)も しが願ふ 心足(だ)らひに
 撫で賜ひ 治(をさ)め賜へば ここをしも あやに貴(たふと)み
 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の
 その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし職(つかさ)

 海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍
 大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと異立(ことだ)て

 大夫の 清きその名を 古よ 今の現(をつつ)に
 流さへる 祖(おや)の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は
 人の祖(おや)の 立つる異立て 人の子は 祖の名絶たず
 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官(つかさ)そ
 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き
 朝守り 夕の守りに 大王の 御門の守り
 我をおきて また人はあらじ といや立て 思ひし増さる
 大王の 御言の幸(さき)の 聞けば貴み(4094)

反歌三首
 大夫の心思ほゆ大王の御言の幸(さき)の聞けば貴み(4095)
 大伴の遠つ神祖の奥つ城は著(しる)く標(しめ)立て人の知るべく(4096)
 すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金(くがね)花咲く(4097)

「詔書を賀く歌」と題している通り、
天皇の詔書そのものをたたえたこの歌は、
詔書の内容をところどころ引用しながら、
皇室の尊厳と伴造としての一族の忠誠を
高らかに歌い上げている。
詔書そのものには、
聖武天皇が自らを仏の奴といっているように、
仏への言及があちこちにあるが、
家持の歌にあるのは、古事記的な古代のイメージばかりである。

「梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き
 朝守り 夕の守りに 大王の 御門の守り
 我をおきて また人はあらじ といや立て
 思ひし増さる
  大王の 御言の幸(さき)の 聞けば貴み」

と歌い収めるところには、
武の名門大伴氏を背負う家持の、
強烈な伴造意識がほとばしり出ている。

大伴家持 養老2年(718-785) 67歳没
大納言 大伴旅人長男
官位: 従三位中納言
主君 聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇
→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇
万葉集最終選者

父 大伴旅人オオトモノタビト
淡等とも記される。
大納言・大伴安麻呂の長男。
官位は従二位・大納言。
弟 大伴書持[オオトモノフミモチ](天平18年 746死去)

父 大伴旅人歌
「験(しるし)なきものを念(おも)はずは
一坏(つき)の濁れる酒を飲むべくもあるらし」
:万葉集巻三・338に収録。雑歌。

酒をたたえる歌として有名ですが、
藤原氏との権力闘争に敗れていく
一族の姿を自虐的に読んだとも思われます。

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